方言はなぜそこにあるのか 大修館書店2016年9月刊
著者は1963年、大阪府に生まれ、東北大学文学部卒業、同大学院文学研究科を終了した国立国語研究所教授です。方言学、言語地理学が専門で、現在は長野県に住み、富山大学、信州大学と共同して、主に本州中部地区を中心にフィールドワークを行っています。
日本の方言学は世界に先駆けて、100年前からすでに地図で示す研究を行ってきました。この蓄積は貴重なものでしたが、その収集にはたいへんな苦労がありました。ところが最近は情報技術の進展で、一段と詳しい分析が可能になり、おもしろいことになってきました。
方言の東西対立は、よく知られています。その境界はどこで、なぜなのでしょうか。
動詞の否定辞の、ナイ(東日本 言ワナイ)と、ン(西日本 言ワン、言ワヘン)の、太平洋側の境界は、長野県と岐阜県の県境から御前崎のあたりにかけてですが、なぜか山梨県中央部の甲府盆地が孤立して西日本に入っていました。ここはもともと東日本型だったはずです。著者は、富士川の水運によって、西日本の方言が入ったと考えています。富士川は古来暴れ川として知られていました。しかし江戸時代初期に角倉了以によって改修され、甲府盆地と太平洋の水路が開けました。主な船荷は、下りが米と薪炭、上りが塩と魚でした。とりわけ塩が必需品で、瀬戸内から清水港を経て富士川を遡り、甲府盆地に入ったのです。この塩の道の水運は400年続いて、明治末期が最盛期を迎え、鉄道開通で終わりました。西日本との人の深いつながりが、地域を越えた方言の移入のもとになったのでしょう。
では同じ水路でも、北前船の場合はどうでしょう。江戸時代前期に幕府の命で、河村瑞賢が完成させたものです。北国から多量の産物を大坂に運び、日本海沿岸の経済活動を活発化させました。北前船は単なる運送業ではなく、商社でもありました。そこで原因理由の接続助詞、サカイで見てみましょう。(雨が降るカラ行かない 東日本)、(雨が降るサカイ行かん 畿内)の分布は、富山以西ではサカイ、越後はスケ、庄内はサケ、秋田はアンテ、津軽はハンデでした。西国の山陰、山陽はケーです。つまり相関関係があまり見られません。どうやら儲け話では、言葉は伝搬しないようでした。ちなみに信州はデ、関東はカラです。
なお富山の庄内川沿いの五箇山、白川郷の言葉には集落ごとに細かい変化がありました。とくに敬語に特徴があり、五箇山では「お日様がノボラサッタ」などの擬人化がみられます。また信州秋山郷でも、(花が咲ケル)のような、自然物を有情語とした例もありました。
よく田舎ことばの例に挙げられる、(おら行くダ)、(行くズラ)はどうでしょう。おもに長野、山梨、静岡、愛知あたりです。福島もありましたが、茨城では使いません。茨城を田舎とみた東京人の思い込みだったようです。このズラのラは、古典の(むずらむ)から転じたことは確かでしょう。古代東北方言のドーラから変化したものもあるかも知れません。
柳田国男は、言語は中心地から同心円的に、変化しながら伝わるとしましたが、柴田武は「言語地理学の方法」で、新潟県糸魚川地方の調査をもとに、方言分布から歴史を読み取りました。その背景にある地域の人の暮らしに対する洞察は卓見でした。著者は今、地理空間だけでなく歴史、さらに人間とは何かという総合的な人文科学をも目指しています。「了」